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カテゴリ「新書」の36件の記事 Feed

2013年9月10日 (火)

帝国の自壊 新・ローマ帝国衰亡史

130910_5ローマ帝国。古代におけるその歴史は、一つの都市国家が長い年月をかけて世界帝国へとのし上がり、そしてゆっくりと衰退に向かいながらも、1453年ビザンティン(東ローマ)帝国の滅亡までの1000年間に亘って命脈を保ち続けた、歴史に類を見ないその長命さへの感嘆とともにあると言っても過言ではないだろう。

しかし、その長い歴史の中でこの国は姿を替え続けた。建国当初は王国、そして共和国からユリウス・カエサル、オクタヴィアヌスを経て帝国へ、そしてキリスト教を国教としつつ皇帝独裁の国家となり、476年には西ローマ帝国の滅亡を迎える。東に残された帝国は、そのローマ帝国に連なる歴史はアイデンティティとして残されたが、ギリシア人の国家と呼ばれるように、当初のローマ帝国とは殆ど異質の国家だった。

その長いローマ帝国の歴史の中で、この本は3世紀から4世紀の短い期間に焦点を当てている。この時期こそがローマ帝国が最後の栄光を放ち、そして一気に崩壊へと向かう歴史のターニングポイントであったのだと。ローマが徐々に衰退に向かっていく、という歴史観の著書が多い中で、この観点は非常に特色のある点だと思う。

ローマが反映した要因に、その寛容さを挙げることに異論をはさむ人はないだろう。ここで言うローマとは土地の名前に非ず、国家を構成する民としての理念を共有し、権利と義務を果たす人たちに与えられたアイデンティティであり、ローマ人とはローマに住む市民ではなく、市一種のスティタスと言ってもいいだろう。最初は文字通りローマ住む者たちに与えられていたものが、やがてイタリア全土、そして広く属州とよばれた辺境に住む有力者たちにも与えられて同化していったのが、ローマの繁栄と軌を一にしていた。

しかし与えられすぎたステイタスは価値を失い、やがて新たなステイタスが生じる。自分たちこそ真のローマ人であり、属州、辺境の民を排除する理念が帝国内を覆う。そのとき帝国は徐々に自壊を始める。その時、ローマ帝国は実は決して強固なものではなく、共通のアイデンティティに結び付けられた緩やかな連合体であったことが明らかになり、その結びつきを失った帝国は麻の如く急速に解けていく。476年の西ローマ帝国滅亡は、後世が大きく取り上げるような歴史的なイベントではなく、単なる小さな地方政権の交代劇であったのだと著書は語る。

僅か30年で大帝国が崩壊する歴史を解き明かす著書の面白さは、辺境からローマ帝国を観た視点にある。今のような固定的、物理的国境の概念とは違った当時の緩やかな境界に生きた人々の目線から語る歴史は、説得力を持って迫ってくる。新たなローマの衰亡史として興味深い一冊だった。

新・ローマ帝国衰亡史(岩波新書)

南川高志著

岩波書店刊

2010年2月 2日 (火)

大河ドラマをぶった斬る!大河ドラマ入門

100123taiga 実は時代劇大好きでして、ケーブルテレビの時代劇チャンネルなんか、大好物です。「暴れん坊将軍」、「大江戸捜査網」、「忠臣蔵」なんか、ついつい見てしまいます。

NHKの時代劇と言えば、やはり大河ドラマ。今でこそそれほど神通力がなくなっちゃたけど、昔は視聴率軽く30%超えだったほどの国民的番組だった。自分の生まれた市は、毎年この大河ドラマを題材に菊人形イベントを開催していたから、思い入れも強いんだろうな。

で、この大河ドラマを作品、キャスト、音楽と言った断面からバッサバッサと斬って見せてくれるのがこの新書。やっぱり視聴率が大事っ、てことはNHKも民放と何故か変わらないようなので、題材は戦国(織田・豊臣・徳川)、幕末、忠臣蔵といったところに偏りがちだけど、そのキャストを表で比較してくれているのが面白い。あ、この女優、この俳優が演じていたのか!って驚きを感じることもしばしば。

全てに納得するわけではないけど、視聴率と作品の質が必ずしも一致しないってのは、確かにそうだと思う。で、勝手ながら自分が見た中での大河アカデミー賞を!

作品賞:「おんな太閤記」、「翔ぶが如く」、「太平記」、「花の乱」、「毛利元就」

主演男優賞:西田敏幸「おんな太閤記;豊臣秀吉」、真田広之「太平記;足利尊氏」、津川雅彦「葵 徳川三代;徳川家康」、中村橋之助「毛利元就;毛利元就」、渡辺謙「独眼竜正宗;伊達正宗」

主演女優賞:宮崎あおい「篤姫;篤姫」、佐久間良子「おんな太閤記;北政所」 、仲間由紀恵「功名が辻;千代」

助演男優賞:片岡鶴太郎「太平記;北条高時」、笹野高史「天地人;豊臣秀吉」、野村萬斎「花の乱;細川勝元」、小林稔侍「翔ぶが如く:岩倉具視」、中村梅雀「八代将軍吉宗;徳川家重」

助演女優賞:岩下志麻「独眼竜正宗;お東の方」、紺野美沙子「風林火山;三条局」、田中裕子「翔ぶが如く」、大竹しのぶ「元禄繚乱;りく」、稲盛いずみ「義経;常盤」

てな感じですが、皆さんはいかが?

大河ドラマ入門

小谷野 敦(こやの とん)著

光文社刊(光文社新書)

740円(税別)

2009年8月18日 (火)

キリスト教芸術を読み解く ヨーロッパの中世美術

090816 ヨーロッパ中世、それは自分の勝手な解釈だけどローマ帝国滅亡からルネサンスまでの約1,000年にも亘る長い歴史をイメージしている。そしてこの間は美術的には不毛の時代のように一見思えてしまう。

実際には教会建築など興味を魅かれる分野はあるが、肝心の絵画彫刻はその稚拙な表現ゆえ戸惑わずにはいられない。ギリシア、ローマであれほど写実的、人間的な表現を手にした人たちは何故それを放棄してしまったのか?いつも疑問に思っていた。

この新書はそうした中世美術の成り立ち、背景、作品の見方をやさしく解説してくれている。特にあまり触れられる事のない東ローマ帝国の遺産、ビザンティン芸術について詳しく書かれている。イタリアの魅力の一つ、モザイクや壁画芸術を知るにビザンティンは避けては通れないが、この本はラヴェンナの街をとりあげて得意とも言える芸術がなぜこの地に生まれたのかを教えてくれる。

この本を読めば、ルネサンス以前の1000年が決して「暗黒の時代」などという表現が当てはまらないことを確信するはず。まだまだ未知の領域が大きく横たわる美術のフィールドに踏み出すには最適の道案内だ。

ヨーロッパの中世美術

浅野 和生著

中央公論新社刊(中公新書)

940円(税別)

2009年8月11日 (火)

フランスの土台を築いた王達の歴史 カペー朝

090806france フランスの歴史に詳しい人でも、その範囲はフランス革命以降でそれより前の事まで知悉している人はなかなかいないように思う。

フランスが王政だったという事を知っている人も、おそらくはルイ14世、ルイ16世くらいしか知らないんじゃないだろうか。フランス王国がかつてシャルルマーニュ大帝が全盛を築いたフランク王国に端を発する歴史を知る人でも、そこからルイ14世の絶対王政に至るまでの流れを知る人は学者以外にはまずいないといっていいだろう。

その最大の理由はその間の歴史について著述する適当な本がなかった事が大きな要因だった。自分もいろいろ探したけど日本になくて、フランスに旅行した際に簡単な記述の子供向けの本を買い求めてようやく概略を知った。

しかしようやくその隙間を埋めてくれる本が出版された。著者は中世史、フランスを舞台にした歴史小説の当代第一人者、佐藤賢一氏。

この時代の歴史が難しい一因には、名前が同じで全く違う人物が複雑に絡み合っていることにあると思う。この本でもそうした困難さはなかなか克服できていない。しかし、それ以外は平易に小説家らしい物語調で知られざるフランス初期の王達の個性的な人生を快調に語っていく。

この頃のフランス王は、彼らに限らないが綽名を付けられている。「肥満王」「禿頭王」といった気の毒なものから、「尊厳王」「獅子王」「勇敢王」など偉大さを感じるものまでいろいろだ。そうした綽名とともに王達の時代や取り巻く敵との格闘が鮮やかに蘇る。

987年に即位したルイ・カペーから直系は断絶しつつも、同じ一族からヴァロワ朝、ブルボン朝と引き継がれて800年の命脈を保ったフランス王家。本国では断絶したが、今もスペインでは国王として君臨している一つの家系の歴史をたどる試み。待望の新書にようやく出会えたことに感謝。

カペー朝 フランス王朝史1

佐藤 賢一著

講談社刊(講談社現代新書)

740円(税別)

2009年7月18日 (土)

蒼に映える教会を訪ねて イタリア・ロマネスクの旅

090710教会建築の中では、ロマネスクが好きだ。ゴシック建築の垂直性も嫌いじゃないが、見ていると痛々しくなることがある。

それに比べると過度な装飾はないが、落ちつき、崇高さをより感じることができるロマネスク建築は街の雰囲気とも調和して存在するが故に、時としてそこにあることさえ気付かないこともある。

ヨーロッパの各地に点在するロマネスク建築だが、ルネサンス以降の装飾的かつ洗練された建築にばかり焦点が当たっているイタリアにもまだまだ多くのロマネスク教会が残っていることは少し意外だった。しかしその姿も何故か他の地域のロマネスクよりは洗練されているようにも思う。長い歴史とともに次代の雰囲気に合わせて姿を変えてきているのかもしれない。

イタリア各地に残る24の教会を美しい写真と、歴史とともに訪ねる小旅行。イタリアのまた違った魅力を再発見できた本だった。

イタリア・ロマネスクへの旅

池田健二著

中央公論新社刊(中公新書)

1,000円(税別)

2009年7月 7日 (火)

隠すひと、隠さないひと アトリエの巨匠に会いに行く

090706久々に凄い本に出会ったと思う。こんな事ができるなんて、それも日本人がやったなんて未だに信じられない。

アーティストは自分の多くを語らないものだと思っていた。彼らにとっては作品こそが全てであり、その過程、苦悩、格闘といったものの痕跡が残る仕事場、アトリエを見せることは本意ではないだろう。事実、この本でも何人かはアトリエを見せることを拒絶した。シャガール、ダリ、キリコ、ビュフェといった画家たちだが、彼らの作品を思えばそうした事も肯けるような気はする。しかしその他の画家たちは気さくにアトリエを公開してくれたようだ。アクセスは難しいが、一旦それを突破すればアーティスト自身はその事に抵抗感を示さない事は意外だ。

アトリエを公開する、しないにしろ、この本からはそれぞれのアーティストの生の声が聞こえてくる。それらは難解な言葉を尽くして語られてる美術書の文章とは全く違うシンプルなものだ。特に絵の具のチューブを踏みつけて作品を作り出すアルマンという画家のスタイル、これを「絵具で射精している」と表現したのは正に真実であろうし、写真を通してアーティストの素顔に触れ続けた筆者だからこそ見通せた事なのだろう。

当たって砕けろで当り続けたカメラマンの30余年にわたる無鉄砲な行動によって、二重三重のフィルターを通さずにアーティストの姿に迫る。すばらしい本に巡り合えたことが嬉しい。

アトリエの巨匠に会いに行く

南川 三治郎著

朝日新聞出版

1,000円(税別)

2009年6月 1日 (月)

英雄の影に生きた男達の人生 人はなぜ裏切るのか

090529 世界史の中で英雄を挙げろと言われて思いつくのは、自分であれば月並みだけれどアレクサンダー大王、チンギス・ハーン、そしてナポレオンだろうか。そしてこの3人に共通するのは戦争に強かったことだ。

歴史の中で戦争の果たす役割は大きい現実は否めない。国々の攻防を賭けて戦われた戦争は、そこに多くの人々の失われた命があるものの歴史の主要な舞台として語り継がれてきた。その中でもナポレオンの生涯が今でも人々の興味をひきつけてやまないのは、最後には権力を失い絶海の孤島で孤独の内に亡くなるという絶望を体験した故だろう。そのドラマには前二者にはない人間としてのドラマがある。

そして彼の栄光の影には周囲を取り巻いた人物たちの葛藤があるからこそ、ナポレオンという巨星の生きた時代を単なる英雄譚にさせない、人間味のあるものにしている。この親書でもそうしたナポレオンの栄光を支えながらやがて袂を分かった人たちの姿を通して、人間というものの複雑な心理を語っていく。

ナポレオンを決別した人物はやはりその栄光の凋落を察して、見限った人物が大半に違いない。しかしそれ以外にも、自分が今の社会に能力を最大限に活かすことに正直に生きた人物がいた。そうした人物が自分を離れた時はナポレオンもその行動には納得したという。そうした度量、清濁併せて受け入れる器量があったからこそ、コルシカという辺境の生まれでありながらフランス皇帝、一時はヨーロッパの覇者という高みにまで上ることが出来たのだろう。

組織心理学などといういかめしい副題が付いているが、そんな堅苦しさとは別に歴史に名を残した人物の生臭さ、そうしたものが歴史を動かしてきたという不合理さから自然に感じられる。それが歴史の面白さにつながっているんじゃないだろうか。

人はなぜ裏切るのか~ナポレオン帝国の組織心理学~

藤本ひとみ

朝日新聞社刊(朝日新書)

700円(税別)

2009年3月27日 (金)

曲線の美を旅して ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る

090325_2 アール・ヌーボーはガラス工芸、ポスターの芸術だと思っていたが、実は建築にこそその特徴が発揮されている、この本を読んでそう確信した。

アール・ヌーボー、「新しい芸術」と呼ばれた19世紀末に現れた装飾的な芸術は、うねるような曲線が官能的、退廃的な雰囲気を産み出し、その怪しげな力に何か抗いがたい魅力を感じてしまう。

そうした芸術が生まれた背景は産業革命により工業化が進んだ結果、全てが機能性、生産性に直結してしまい、大量生産された無味乾燥の品々が世にあふれ、そして人の心もまた荒んだものとなってしまった事への危機感があった。これに警鐘を鳴らしたのが、生活に芸術の潤いを、手作りの温もりを取り戻そうとしたアーツ&クラフト運動のウィリアム・モリスであった。そしてアール・ヌーボーもまたそうした動きと同一の軸上にあるいう認識を初めて得ることができた。

そしてワイン好きにとって発見だったのは、ビオ・ディナミの思想の源泉でもあるアドルフ・シュタイナーの考え方もまた、こうした人間性、自然への回帰的なアール・ヌーボーの思想と同一線上にあるという事だった。そんなシュタイナーによる豪放な建築を見ることができたのも、とても興味深かった。

美しい写真と主要な用語に易しい解説を加えつつ、ヨーロッパ各国に広く受け入れられているアール・ヌーボー建築をたどっていくが、この本の平易さは、建築家ではなくカメラマンの方によって書かれたからだろう。読んだ後で大阪でもアール・ヌーボー的な影響を探してみたくなる、そんな気分にさせられる本だった。

ヨーロッパのアール・ヌーボー建築を巡る 19世紀末から20世紀初頭の装飾芸術

堀本 洋一著(写真)

角川書店刊(角川SSC新書)

1,143円(税別)

2009年3月19日 (木)

わからないことが大事 現代アート、超入門!

090319 自分を含めて多くの人がアートと接する立場というものは、やはり鑑賞者としてのものだろう。鑑賞する者としては、少しでもその作品を理解しようと無意識のうちに努力するはず。

クラシックなアートは、秘められた意味はさておき写実的な表現の範疇にあるので、その画面の中に理解への手がかりは少なからずつかめる。しかし現代アートに関しては、そうした手がかりさえも見いだせず、結果多くの作品の前を通り過ぎるだけとなっている場合が多かった。

この新書では、そうした現代アートに関する「わからない」理由をあげつつ、「わからない」事をアート鑑賞の中で否定していない所が特色だと思う。そして何よりアートジャーナリストとして日頃からアートに接している著者自身が「わからない」事を正直に明かしてくれていることだ。専門知識も少ない一般鑑賞者と同じ目線で、わからないという正直な感情をプラスにとらえつつ、全部わかろうとせずに自分の感じるままに鑑賞する術を教えてくれる。

そう言われれば当たり前なのだが、目の前の作品すべてを理解する必要はないのだ。日常読む新聞だって、全部を理解しているわけではない。大量の情報が詰まっていても、知らず知らず自分の興味のある情報を取捨選択して読んでいる。それで充分新聞の世界を楽しんでいるはずなのだ。アートだって同じのはずだけど、なぜかそうした妥協が許されない雰囲気というものを知らず知らずに感じてしまっているのかもしれない。それは、その作品が「アート」と認められているが故に、「アート」=「美しいもの」、美しいものを理解できない事は恥ずかしい事だという強迫めいたものがあるからではないだろうか。

現代美術はあまりにも多様化しすぎている。アーティストが表現の自由を得たのなら、われわれ鑑賞者も解釈の自由を得ることは当然の権利なのだ。だからわからないものはわからないでいい、でも放っておかないで、ならば自分の見方で楽しめばいい、そうした肩の力を抜いた鑑賞方法でいいんだ、とこの本は教えてくれていると思う。しかし同時に現代アートが手に入れてきた広い表現方法、時間、空間さえ一つの表現方法としてきた歴史も易しく語ってくれていて、現代アート理解への手がかりも同時に与えてくれている。この本を読めば肩の力を抜いて現代アートと自分なりの付き合い方がやっていけそうだ。

この本を読めばあきらめがつくだろう。現代アートがものの見事にわかるなんてことは絶対にないし、その必要はない、そしてそれを認める事が現代アートとつき合うことの第一歩であることを。

現代アート、超入門!

藤田令伊著

集英社刊(集英社新書)

720円(税別)

2009年1月19日 (月)

オバマを迎える複雑 ドキュメント 底辺のアメリカ人

090818 1月20日、アメリカは歴史的な日、バラク・フセイン・オバマがアメリカ大統領に就任する日を迎えようとしている。黒人、マイノリティ出身初の大統領だ。おそらく2年前くらいまでは彼、いや黒人がこんなに早く大統領になると予想した人は本国でもいなかったのではないだろうか。歴史の展開は早く、一つの演説をきっかけにして40代の若き人物を大舞台に押し上げた。

今回の大統領選挙ほどアメリカ国内のマイノリティに焦点を当てた報道は今までなかったのではないかと思う。特にメキシコなどスペイン語圏からの移民によるヒスパニックの動向が選挙結果に大きな影響を与えるといった論調も多かった。しかし移民の国だったアメリカにはその他にもコリアン、ユダヤ、イタリア、そして日系人といったマイノリティ集団が数多く存在する。もちろん黒人もまた白人に比べればマイノリティ、そしてそうしたマイノリティは比較的に低収入、貧しく定職を持たない層が多いという事実がある。

今回のオバマ当選にはそうした層が現状を変えることを期待して投票した、という理解をしていたのだが、現実にはそんな単純なものではないことがこの本を読むと理解できる。さまざまなマイノリティ集団で生きる人たち全てが現状への不満に一票を投じているわけではない。ある人は確かに自分たちの代表としてオバマに票を投じたが、中には彼さえも自分たちとは対極にある上流階級出身として反感を抱き、かつて健康保険改革に取り組んだ過去、そして経験論からヒラリー・クリントンを支持した人たちがかなりいる。これが今回の予備選の混迷に大きな拍車をかけた一因にもなった。

健康保険、この国では社会保障制度としてはないため。貧困層は病気にかかっても満足な治療を受けられない。民間の保険に加入していても、場合によっては病院との提携がなく適用されないケースもあるという。ヒラリーならそうした事態を変えてくれると思った層がかなりいた。そして、予備選でそんな期待が裏切られると、そうした層は誰に投票していいのかわからなくなり、突如現れたサラ・ペイリンに幻惑されて一旦は共和党のマケインがリードする。しかし最後にはブッシュの流れをくむマケインよりも、少なくとも何かを変えてくれるであろうオバマが支持を集めて最後の勝利を勝ち取った。

底辺から見れば、オバマは決して熱狂的に選ばれた大統領ではない。彼の若さ、経験のなさ、そしてマイノリティ出身故の危険さ、かつてキング牧師が暗殺されたような身の危険を心配する人たちが多いのが事実ではないだろうか。しかしそんな心配よりも何かを変えてほしいと思う声が勝った、それが形になって予想だにしなかった黒人大統領を生み出した今のアメリカの現実は問題がいかに深刻であるのかを物語っているように思う。この本で語っている貧しき人たちの声にどのように答えていくのか、4年後の選挙でこそ彼らの真の声を聞くことができるような気がする。

ドキュメント 底辺のアメリカ人 オバマは彼らの希望となるか

林 壮一著

光文社刊(光文社新書)

760円(税別)

2008年7月 5日 (土)

イスラムが熱い! イスラム金融入門

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先ごろ放映されたNHK「沸騰都市」4回シリーズ、その中の3回がドバイ、ダッカ、そしてイスタンブールとイスラムの都市だった。今まで遅れた印象のあるイスラムだったが、今や無視できない存在になっている。

特にドバイなどは、数年前まで名前を聞くことが稀だった。石油が出るわけではないドバイ、今や国土の至る所でクレーン重機がうなりを挙げて建設工事が進行中。しかし暑い外で働く人たちは明らかにアラブ人とは違う褐色の人たち、特にインド系の人が多かった。オイルマネーを吸い込んでいくビッグプロジェクトの数々。この国なら本当に「冬季オリンピック」を誘致するくらいの屋内施設を作りかねない。

そんなプロジェクトの組成に欠かせない存在となっているのが、最近聞くことが多くなった「イスラム金融」。コーランで厳格に「利子を得ること」が禁じられているイスラムにおいて、それを宗教的にクリアした形で金を儲けるかといった手法についての入門書が本著。

一番簡単なのはリースに良く似た「ムラーバハ」という手法。資金を持っている銀行が製品を買ってからお客に渡す。お客は一定マージンを加えて銀行に代金を支払うといった手法だ。こうした手法をベースにいろいろなヴァージョンを作り複雑化しているのが今のイスラム金融。

この本ではそうした精緻な金融手法よりも、イスラム金融を通して各企業や各国の情勢を語っていく国際情勢本的な色合いが強い。

ドバイなどで行われるプロジェクトが大規模になるのもイスラム金融という制度の特徴が一つの大きな誘因であのではないか。ああいうプロジェクトが行われる場合は、プロジェクト完成後の利益だけを返済原資として資金組織、プロジェクトファイナンスが組まれる。

金利が禁じられているイスラムでは、こうしたプロジェクトに投資して、そこから一定のリターンを得ていくプロジェクトファイナンス手法への親和力が高い。だからこそアラブの金持ちが有利なプロジェクトに積極的に出資しようとするし、それを狙った開発企業がドバイのような街に集まってくるのではないか。

イスラムの力の源泉、イスラム金融。これから益々耳にすることも多くなるであろうキーワードの一つに違いない。

イスラム金融入門 世界マネーの新潮流
門倉 貴史著
幻冬舎刊(幻冬舎新書)
224p
740円(税別)


2008年5月26日 (月)

ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか

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最近話題のドバイ。実はここを本拠地にするのがエミレーツ航空。アーセナルのスポンサーでもあるこの企業体、エミレーツ、首長国って意味だったのはこの本で初めて知った。

エミレーツ航空も凄く評判が良くて、旅行好きの人も良く利用する。今では当たり前になってきたエコノミーでの個人用ディスプレイもこの航空会社が先駆けて導入したとか。

それだけじゃなくて、世界地図のような人工島など大規模な建築も目白押し。そしてそんな土地をベッカムが買ったとか、そんな華やかな話題も伝わってくる。開発ラッシュで1か月離れたら風景が違っていた、っていうような話も冗談じゃなく現実なんだそうだ。

そんなドバイの魅力をドバイでビジネスを始めた先駆者が語っているのが本書。ドバイ自体は石油を持たない。その持たない国が石油に依存することなく国を富ますために生み出した知恵の集結が今のドバイとなっている。そしていまや中東の航空、経済のハブ的存在として、日本人にとっても馴染み深いブランドとなった。

暑いのが大嫌いな自分にとって中東は遠く、また自ら行こうとは絶対思わない存在。しかしこの本を読んで、成長一直線でトップギアで走り続けるドバイという都市に興味を持たずにはいられなくなった。そして2週間後、ひょんな事からこの都市を仕事だが訪れる機会を得た。自らこの良くも悪くも人が築き上げた都市の姿をこの目で見てみたい。ただ期間はあまりにも短く、限界はあるが。

ドバイにはなぜお金持ちが集まるのか
福田 一郎著
青春出版社刊(青春新書)
188p
750円(税別)

2008年4月 1日 (火)

フランス・ロマネスクへの旅

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教会と聞いて思い出すのは刺々しい天を突くかのようないかめしさだろうか。ゴシック建築の教会も天国への憧れの精華、極限まで突き詰めた芸術なのかもしれないが、やはり痛々しさは否めない。それはその過程で仮借なく葬ってきた異教、異端の影をそこに見るのかもしれない。あるいは、日本人にとっては天上のみに向かう一方的な方向性が相容れないのかもしれない。

そんなゴシック芸術に先立つロマネスクの魅力は何なのだろうか。外見はゴシックほど鋭角的ではないが、それでも既に天へと伸びる方向性は見て取れる。堂内には異形の怪物、文様、細かに刻まれた旧約、新約聖書の世界が広がっている。しかしそこには一定の自制、沈黙が働いている。そうした犯しがたい抑制の力が神秘性を生み出しているのではないだろうか。

11世紀から12世紀にかけて、まだキリスト教の信仰が十字軍という狂信的運動を生み出すことのない時代に花開いた芸術の世界。この本ではフランスの各地に残されるロマネスク芸術をオールカラーで紹介してくれる。専門書が多いこの世界において、この内容でこの価格は新書ならでは。

8地方、24の教会は派手さはないがそれぞれに魅力的で、所々に異教的な装飾のユニークさが感じられ、当時の職人の遊び心、ユーモアにいつの時代でも変わらない豊かな人間性を思わせてくれる。

今では過疎の村になり果てた地にも驚くべき精緻な建築を残したかの時代の人たち。純粋で無垢な信仰が結晶した祈りの世界。そうした世界に触れて思いを巡らすとき、宗教が原因となった数々の紛争が未だ止むことのない現代がつらく思えてくる。

フランス・ロマネスクへの旅
池田 健二著
中央公論社刊(中公新書1938)
221p
1,000円(税別)

2008年3月19日 (水)

ゲーテも憧れた南国を追体験  「イタリア紀行」を旅する

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ドイツに生まれたゲーテは、それ故に南国に憧れざるを得なかった。そしてついにイタリア旅行の機会を手にする。ワイマール公国の政治顧問としての地位、主君たる公爵の鷹揚な性格を利用したイタリア旅行を通して、自分の行き詰まりを打開、不朽の名を文学界に残す契機となったその旅の過程を追体験する新書がこの本だ。

ゲーテ自身のイタリア旅行記は岩波文庫版で三巻に亘る。しかしその文章は平易で、今でもガイドブックを併用しながら読めば楽しめる内容だが、そんな手間を惜しみつつ簡単にゲーテの旅を再現している。

最近は新書も種類が多くなり、そうした背景もあってこのようなヴィジュアルに注力した新書も出版されるようになった。やはり文章だけでは物足りない、想像力に欠ける自分のようなものにとってはありがたいというものだ。

ゲーテの旅は1年10ヶ月に及ぶ。その間費用は主君持ち。彼は主君の公爵の恩寵を利用しつつ、ヴェネツィア、ローマ、そして南国ナポリ、シチリアを経て再びローマに戻り、そして主君の帰国命令を受けて断腸の思いでローマを後にする。

カラー写真も多く掲載されているが、いずれも陽光の中で光り輝く遺跡の数々は美しい。青空の中で輝くその姿、ゲーテは本国で見ることがなかった美しさを見て自分の感性を活性化していったのだろう。

確かにイタリアの風土には人を活性化させるものがある、それは一度でもイタリアを旅した者に共通する感慨のはずだと思う。しかしそれはやはり遠くにあるからこそ価値が見えてくるものなのかもしれない。そしてゲーテもまたイタリアにとって異国人であったが故に、イタリアに刺激されその才能を開花させ得たのだと思った。

ゲーテ 『イタリア紀行』を旅する
牧野 宣彦著
集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版)
262p
1,200円(税別)

2008年2月 8日 (金)

ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感

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美術に関心がない人でも題名を聞いて思い出すことが出来る絵がある。たぶんそれが「モナリザ」であろうことは異論がないはず。そしてもう一つ挙げるとすれば、この絵ではないだろうか。ピカソが描いた「ゲルニカ」。

永遠の安息を感じる「モナリザ」に比べると、「ゲルニカ」はまさに不安と破壊の絵画だ。しかしこの絵は実はピカソの絵としては理解しやすい絵の一つだということに気がつく。

時は第二次世界大戦前夜。スペインは内戦の真っ只中で、反乱軍のフランコ将軍を支援するためにドイツがバスク地方のゲルニカを空爆した時の悲劇がこの絵の題材となっている。フランコを敵視していたピカソがその非道を国際社会に訴えるために描いたこの絵は、ピカソらしい抽象的な描写ではあるが、比較的形がわかりやすい。牛や死んだ子を抱く母親、馬、倒れた兵士など抽象的とはいえ形を残している。

それぞれのパーツはわかりやすいといえども、全体の構図はやはり難解だ。何故ピカソはこのモチーフをそこに配置したのか、それはやはり一般的な常識を超えている。そこにこのゲルニカという作品の不思議さ、魅力があると思う。

この作品はピカソにとってというよりも、美術作品として稀有な事例だがその製作課程が写真で克明に残っているそうだ。そうした課程を丹念に追いながらこの20世紀最大の画家の思考をたどっていくのがこの本だ。

一つの作品をただ眺めるのではなく、その作品が出来るまでの紆余曲折、そこにこめられた画家の試行錯誤、そしてその絵画が生み出された時代背景。絵画鑑賞へのアプローチの多様さを感じさせてくれると共に、ピカソの思考を追体験できるという楽しみを味わうことが出来る本になっている。

ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感
宮下 誠著
光文社刊(光文社新書)
226p
850円(税別)

2008年1月27日 (日)

米国教育事情 「アメリカ下層教育現場」

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あまりにも赤裸々な文章、それだけにストレートに伝わってくることがある。この本もそうした本の一つ。

作者は元ボクサー。大学を出たがボクシングはケガで挫折、アメリカに渡り、週刊誌の現地記者を経てフリーになった経歴を持つ。

そんな彼がふとしたことからアメリカの高校の教壇に立つことになる。地方都市のレベルも高くない高校で「日本文化」を教える、しかも教員免許もない人間が。その事自体にも驚かされるが、アメリカらしいとも言える。そして初日から作者は現実に直面させられる。真剣に授業を受けようとしない生徒達、彼等に日本文化を教える意味、作者は初日から予想を超えた問題に立ち向かう羽目になる。

しかし作者はあきらめなかった。彼等と目線を同じくして、彼らが興味を持つアニメを題材に扱いながら、時には野外で相撲の授業も行った。日本文化を彼等に教えることに意味があるのか、自問自答しながら、しかしベースにあるのはかつてヘビー級のチャンピオン、ジョージ・フォアマンが語った言葉。
 「一緒にいてやる
   冗談を言って笑い合う
    触れ合う
     向き合う


作者の体当たりの授業に、やがて生徒達の中からもそれに応えてくれる者が現れ始める。しかしそんな手ごたえもつかの間、未だ消えない人種差別の偏見、クラスの閉鎖、劣悪な生活環境から学校を辞めて行く生徒といった現実が作者を襲う。しかし作者はあくまで前向きに、問題と真正面に向き合っていく。

厳しい環境にある生徒達。そんな彼等に対して、難しいとは知りつつも目標に向けて励まし続け、そして見守り続ける作者。手に届かない場所かもしれないが、それを求めて頑張り続けるしかない、そんな熱い思いが伝わってくる渾身の手記だった。 

アメリカ下層教育現場
林 壮一著
光文社刊(光文社新書)
740円(税別)   

シャンパンの多様な世界 超シャンパン入門

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一人で楽しむには荷が重いもの、チーズで言えばモンドール、ワインで言えばシャンパーニュ。こればかりは一人でチビチビよりも、大人数で楽しむのが正解。

パーティの席上でシャンパーニュほど客の興味をひきつける酒はない。たとえそれが真のシャンパーニュではなくても、泡モノというだけで惹かれてしまうのは、口に含んだときの刺激、シャープな酸に溶け込んだ細かな泡が舌先で弾けるときの感覚が忘れられないからだろうか。

そんなシャンパーニュだが、今ではモエやヴーヴ・クリコ以外にも小さなつくり手、いわゆるレコルタン・マニピュラン(RM)物が多く入ってくるようになり、どれを飲んでいいのかわからなくなっている。シャンパーニュでも産地の違い、セパージュの違いはあるというがそれを覚えるのは至難の技。

そんなときに役立つのは持ち運びに重いハードカバーよりも、手軽な文庫や新書のガイドブック。そしてようやくシャンパーニュ版の新書ガイドブックで手ごろな本が出た。

この本には101本の作者オススメシャンパーニュが、味わい別、作者の推薦などのカテゴリーに分けて紹介されている。これらは比較的容易に手に入りやすいものなので、興味があれば実際に楽しむこともできる。それぞれの項目にはセパージュ、価格も記載され、造り手のデータ、HPアドレスもあるからさらに踏み込んでいくことも可能だ。

しかし読んでみて、シャンパーニュを殆ど飲んでいない、という事実を改めて実感した。ま、価格が価格だから、仕方ないけど...

超シャンパン入門
宇田川 悟著
角川書店刊(角川oneテーマ21)
895円(税別)

2008年1月14日 (月)

イタリアは素晴らしい 仕事以外は...

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誰もが一度はイタリアで生活してみたいとあこがれるんじゃないだろうか。確かに旅行で短期間滞在してみて、その美しい風景、歴史的建築物、宗教画の数々、おいしい料理とワイン、魅力を数え上げればきりがない。

しかし、著者はそれを否定する。そうした魅力の数々まで否定するわけではないが、仕事をするとなるとイタリア人というものはあまり相手にしたくない国民性だという。

つい最近ベルルスコーニ前首相が総選挙で敗れて下野した。敗れた相手は風貌も学者的であまり愛想のない前EU委員長のプロディ現首相。当時はプロディ圧勝の予想だったが、前首相のなりふりかまわぬメディア作戦と選挙法の改正に加えて、なによりベルルスコーニを許容する国民が彼への支持を強め、結果は敗退したものの僅差まで追い詰めた。

もともとイタリア人は政治もそうだが、反則すれすれでも成功すればよし、と考える風土があるそうだ。そして男らしいものを好むラテン的ものの考え方がベルルスコーニを押し上げてきた。他国には理解できない問題発言をしても、かえって国内では人気をあおる場合があったという。

おそらくイタリア人の生活を僕達が羨ましく思うのは、この成功すればめっけもの、的感覚で彼らが生活をしている余裕に対してではないだろうか。会社の方針、社会の動きに順応してこまごまと結果を積み上げていく余裕のない生活に倦んだ日本人にとって、自分達には出来ない生活をやっているイタリア人への羨望はこれからも変わることはないだろう。

よほどの覚悟がない限り、イタリアは時折訪れるくらいの距離感の方が精神衛生上はいいようだ。

イタリアは素晴らしい、ただし仕事さえしなければ
加藤雅之著
平凡社刊(平凡社新書)
202p
700円(税別)

2007年12月19日 (水)

FW高原、病気と向かう日々 病とフットボール

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エコノミー症候群?日本代表のFW高原がこの病気に襲われたと聞いたときは正直思った。「何ケチッっとんねん!」

しかしこの病気がこんなに恐ろしいものとは、この本を読みまで思いもしなかった。たまたまエコノミークラスのような長時間窮屈な姿勢を続ける場合に見られただけで、体内の血が固まり、血栓ができて肺などの臓器が死んで生命を危うくする恐ろしい病気だと思い知らされた。

その恐怖が真実味を帯びて迫ってくるのは、当事者、日本を代表するFW、高原直泰の淡々とした表現のせいだろう。一度発症したら一生付きまとう病。トップアスリートで、人一倍血の巡りはいいはずの彼に襲い掛かった悲劇。

しかし高原は真正面から病気に向かい合う。それは発症以前からサッカーに対して真正面から向かい合う姿勢、悪い状況も前向きに考えて克服するという性格故なのだろう。一度再発した後は、「次に発症したら引退する」という決意の元でサッカーと相対している高原、だからこそこのところのブンデスリーガでの存在感、見事な活躍に結びついているのだろう。

この本の素晴らしい所は、こうした病との闘いに終始することなく、日本代表としての戦い、今後、つまりは2010年のワールドカップに向けての希望についても率直に語っている点だ。この本を読んでいて、いつか「やべっちFC」で明るい稲本選手と共に、控えめながら一語一語落ち着いて語っていた高原選手を思い出し、その人柄がにじみ出てくるような感じだと思った。

完治することのない病気と向かい合いながら、前を向いて進むことの出来る人間の強さ、可能性の素晴らしさ。読んだ後久々にすがすがしい気持ちとなった、オススメの一冊だ。

病とフットボール〜エコノミークラス症候群との闘い〜
高原直泰著
角川SSコミュニケーションズ刊(角川SSS新書)
176p
720円(税別)

2007年11月24日 (土)

ワインをめぐる小さな冒険

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トンカツとワインとの相性?なかなか難しい質問だけど、突き放してしまうなら
無理にトンカツにワインを合わせる必要ないんじゃない?」
と返してしまう方が無難かも。

しかしワインラヴァーズとしては、そうした難問に挑戦してみたくなる気持ちもあって、この著者もまたワイン道を究めた人だけにそうした戦いに挑んでしまったわけだ。その気持ち、よくわかる。

著者は出版社に勤務して多くの作家達と交流する一方で、多くの飲食関連の書籍も担当してきた。昔は今と違って本屋の一角にワイン関連の書籍が並んでいる、なんてことはなかったし、熱心な酒屋も少なかった。しかし多くの友人さんとの交流、そして類まれな知識を持つ作家との出会いの中で得た経験が思い入れのあるワインと共に19章で語られていく。その第1章がトンカツとの格闘記。そしてこの挑戦は他の章にも出てくるのだから、思い入れには頭が下がる。

織り込まれているティスティングコメントも簡潔で参考になる。超高価なワインを当たり前の表現で誉めそやす本や雑誌も多いが、「ロゼに栄光の日をふたたび」「廉価ピノ・ノワール世界選手権」といった題名からもわかるとおり、著者にそうした崇拝の心は全くない。言葉は悪いかもしれないが、自然体でワインを「偏愛」する、愛好家のあるべき姿にある種の感動を覚えるエピソード集だ。

ワインをめぐる小さな冒険(新潮新書)
柴田 光滋著
新潮社刊
202p
680円(税別)

2007年10月27日 (土)

女子の本懐

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最初題名を見たときに、「なんて安直な...」と思った。あまり軽々しく使うものではないと正直反感を覚えた。

「男子の本懐」と言えば、城山三郎著の小説だ。昭和初期の首相浜口雄幸が信念の元で推進した「金解禁」政策。当時主要国の中で金本位制に復帰していなかった日本、国際的な要求の中でその体制に復帰させようとして緊縮財政など痛みの伴う政策を断行、その結果反対派の銃撃に遭い、そのときに浜口首相が漏らした言葉がこの言葉だったという。

そんな重みのある言葉を吐くほど、彼女の55日の内容が濃かったかどうか、そこに賛同はできない。今の守屋次官との人事をめぐる争い、官邸との軋轢、そして一方的退任宣言、そこに「本懐」と呼ぶほどのものがあるんだろうか。

そうした思いとは別に、その55日を刻々と日記の如く綴っていたことには正直驚く。彼女は今日ある事をすでに予想していたのだろうか?その「日記」は他者が読むであろう事を十分意識したものだから、全てを信じることは出来ない。

でもやはり読んでいて面白いのは大臣になるということによる生活の変化の数々。例えば正門を守る自衛官にとって大臣は上官であるので、通るたびに「服務異常なし」と唱える。しかし大臣を辞めれば単に客であり、軽い敬礼のみになる。

大臣は天皇の認証を受けることは知っていたが、その後各宮家も廻ることも初めて知った。やはりそうした慣例が今も厳然と残っているということを改めて知った。

この時期にこうした本を出版するというあまりにもタイミングのよさには驚かされる。逆にこうだからこそ自民党にとっては「外様」である彼女がこれまで政権の中枢で活躍できた理由なのだろう。

このことでいろいろ非難、「風見鶏」呼ばわりされているようだが、決してそれは政治家にとって悪いことではないと思う。その時の風を呼んで出処進退を決める、そして最終目的であるトップ、首相を目指すことを非難するいわれは何も無い。政治家にあって「風見鶏」と呼ばれることは、すなわち風向きを見事なほど読んできたということであり、その目の確かさに対するやっかみもたぶんに入っているものだから。

同僚議員達からは否定的に言われることの多い彼女だが、それでも第一線で活躍の場を与えられ続けてきた。そこにはリスクも十分にあったはずだ。しかし防衛次官騒動で大きなダメージを受けることなく、次の機会をうかがう立場を残した。

同僚議員たちからの誹謗、やっかみを糧にしながら、今だに何かをやってくれそうな期待を集める存在であり続ける、女性で首相に最も近いと言わせる立場をキープする、その現状こそ、まさに彼女をして「女子の本懐」と言わしめる面目ではないだろうか。

女子の本懐〜市谷の55日〜
小池百合子著
文藝春秋刊(文春新書602)
254p
750円(税別)

2007年9月24日 (月)

愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎

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ヨーロッパの博物館に行くと奇妙な物に出会うことがある。異形の肖像、得体の知れない生き物の剥製のようなもの、臓器が露出した蝋人形...いったい誰がこんな趣味の悪いものを集めたんだろう?

集めるとすれば当時の王侯貴族くらいしかいない。気品、上品さに生きた彼らが本当にこんなものを集めていたのだろうか。いや、確かに集めていたのだ。かつてはどの城にもこのような収集品をあつめた部屋があったのだ。

この本ではそうした品々をカラーで多く紹介しており、眺めているだけでも楽しい。いずれも殆ど展覧会では見る機会のないものばかりで、正統(?)美術ファンには確実にソッポ物の世界だ。

しかしこれらの収集熱の背景にあるものは、世界の全てをあまねく知りたい、収集したいという純粋な情熱だった。そして当時はそれが可能だと思わせた時代だった。しかし時代とともにそうした全知全能的なアプローチは不可能なほど人類の知の対象は細分化し深みに嵌っていき、門外漢の介入を許さない閉鎖的な世界が数多く出来ていく。

今の時代からこれらの収集品を見れば、なぜこんな珍奇なものを真剣に集めたのか、と否定的に捉えてしまう。自分もそうだった。しかしこの本を読んだ後は少し違って見えてくる。情報の少ない時代に必死に世界の全てを知ろうとした収集家達、そしてそれをよしとした時代の寛容さに一種あこがれを覚えるようになってくるから不思議だ。久しぶりに博物館に行ってみるのも面白そう、そんな気分にさせてくれる異質の世界満載の本だ。

愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎
小宮 正安著
集英社刊(集英社新書ヴィジュアル版)
224p
1,000円(税別)

2007年9月22日 (土)

生命とは何か? 生物と無生物のあいだ

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一流の科学者は文章を書かせても一流であると感じることがある。寺田寅彦、中谷宇吉郎、ファイマン、湯川秀樹...それは理論一辺倒でなく、示唆的なエピソードを挿入しつつ真理を平易に語っていくその語り口に魅力があるのだと思う。

この本もそうした一冊のようだ。本屋では25万部、というような表示もしていたが、なぜこうした本が売れるのか?よくはわからないがとりあえず手にとってみた。

生物と無生物の間、生物とはなんだろうという定義をさがし、著者の叙述は続く。前半はDNAの全貌が明らかになる経緯を語りながら、その構造の美しさ、二重らせん構造で、それぞれが対になる塩基で結びついており、一方が壊れても対ゆえに複製が可能になるその構造から、生命の定義を「自己複製するシステム」とする。

しかしそれに留まらない。数多くの細胞で成り立っている生命だが、それは常に外乱により変異や崩壊の危険にさらされており、実際にそうした状態に陥っている。しかし外見上はなんら生命の営みに変わりがないのは何故か。それを著者は
「動的平衡」、すなわちそうした攻撃を先回りするように細胞は日々新たに更新を繰り返し、見た目上は全く変わりがないように働いている。しかし個々の細胞は日々失われ、新たな細胞が取って代わっているのだ。そこから再び生命の定義を「動的平衡にある流れ」とする

しかしそうした定義を超えるかのような生命の神秘に時として翻弄される科学者の姿もある。あるタンパク質を持たない生物がどうなるかを実験しようとしたが何も起こらない。しかし部分的に欠けた生物は明らかな異常を示す。持たざる場合は初めからそれに合わせた機構を形作る、人智を超えた生命の修復力、という現実が簡単な生命の定義を否定する。

所々やはり難しい箇所はあるが、別に読み飛ばしてもいいと思う。事実専門的な箇所は少々読み飛ばしてしまった。でもこの本の魅力は失われない。ここにあるのは生命の真理に迫った科学者たちの生の姿と、それを取り巻く環境、そしてミクロレベルで語られる生命の節理が綾なすドキュメントだ。

生物と無生物のあいだ
講談社刊(講談社現代新書)
福岡伸一著
288p
740円(税別)

2007年9月15日 (土)

時代に逆行? 「命令違反」が組織を伸ばす

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まず単刀直入にこの本は久々に面白く読ませてもらった格別の1冊になった。(ので長くなります。)

驚きだったのは、まず題名。このCSR、ルール遵守第一の風潮が強い中で「命令違反」を肯定的にとらえていること。ただし全ての命令違反を著者は是としているわけではないが。

次にこのようなショッキングな題材ながら、単に精神論で言っているのではなく、経済学の手法を取り入れた分析による解説を行っている点。しかもその事例として太平洋戦争を中心とした日本陸軍を用いている点にも驚く。

最も命令違反を忌避する軍にあって、日本陸軍は度々現地の指揮官による暴走を起こし、最後は精神論のみでやみくもに太平洋戦争に突入し、多くの人命を失わせた、と思っていた。

しかし、そんな中でも冷静に現場の実態を見つめ、命令がふさわしくないと判断して敢然と命令違反を犯し、少しでも事態をよい方向へ変えようと努力した指揮官がいた。

よい方向と言っても、戦いである以上多くが死んでいくことに変わりは無いし、それになんの意味があるのかと思ってしまう。しかしそれは自分たちが今の時代背景で物事を考えてしまうからであり、戦地にある人達にとってはそうではなかった。死は避けられないとしても、その死は無駄死にではない、兵士が兵士として死んでいける状況を作ることに指揮官は最後の努力を傾けた。

本部からの迎撃命令を拒否し、ペリリュー島で執拗な洞窟ゲリラ作戦を展開してアメリカ軍を恐怖に陥れ、陸軍の幹部達に戦略の転換を迫った中川州男大佐の事例は驚くべきものだった。そして映画「硫黄島の手紙」で栗林忠道中将が絶望的な状況でも戦い抜くあの姿勢があのときは理解できなかったが、この事例を読んで少なからず理解できた。

この本を読んでいくと当時の状況は時代の狂気の中で突発的に起こった極端なものではなく、現代においてもありうる正常な判断の元で起こったものであったかもしれないことに驚く。自分たちが歴史を判断するとき忘れがちなことは、人間は完全なものでないという事、常に正しい判断を下すものではない、という事だ。今を基準に判断しても歴史の本当のところは何もわからない。

完全ではないゆえに判断の間にはずれが生じ、そのずれによって不条理が発生する。その不条理を是正するのは組織にあっては「命令違反」という著者の主張、普段の仕事にあってもそうした場面はよく出くわす。CSR、ルール遵守も結構だが、そうした規範が社会的なものとそぐわなくなる場合が往々としてある。そういうときにそれを改善する契機は残念ながら外側、一般社会からの糾弾によるものが大半だ。そうしたことにならないためにも、著者の言う命令違反をあえて受け入れることのできる弾力性が組織には確かに必要だと思う。

しかしながらつまるところそれは管理者の許容範囲に依存せざるをえないのではないだろうか。組織を考えながらも人の資質に行き着いてしまったジレンマを感じずにはいられないが、久々に知的好奇心と組織論の両面で考えさせられる本だった。

「命令違反」が組織を伸ばす(光文社新書312)
菊澤研宗(けんしゅう)著
光文社刊
272p
760円(税別)

2007年9月12日 (水)

ル・コルビュジェを見る

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おそらく20世紀で最も著名かつ影響の大きな建築家がル・コルビュジェであることに異論はないんじゃないだろうか。あの安藤忠雄氏も愛した飼い犬にその名前をつけるほどだし。でも何がすごいんだろうか、さっぱりわからなかった。そんな疑問に答えてくれる本がこの新書。

彼の凄さは本来大地に立つべき建築物をそこから切り離し、空間の中で完結した建築を自然と作り出したことだという。それは壁を構造体として用いる工法から、柱で支える構造への転換が可能にし、壁の中に大きな窓を取り込むことで、空間に浮遊する感覚を生み出すことが可能になったのだ。

6s7_ijrv 彼の代表作サヴォワ邸がまさに一つの到達点だ。たしかにこの建築物は大地と切り離され、重力とは無縁の生活環境を呈してくれるかのような感覚だ。重さを殆ど感じさせない。ただあまりに先進的過ぎて、技術が追いつかず漏水が激しい欠陥住宅だったのだそうだが。


N64wpqg7 そして最後の到達点がロンシャン教会堂。幾何学的な構造からはかなり離れて、サヴォワ邸からは対極にあるようだが、それでもこの形態、いささかも重さを感じないのはなぜだろう?天空に向かって自然に伸びていく流線型、ここにはコルビュジェが生涯持ち続け大地から芽吹く樹木のイメージがあるという。確かに樹木は根元は太いが、大きく上に向かうその姿から重々しさは感じない。


この本を読んで、ル・コルビュジェがなぜ革新的で、こんなにも多くの建築家に影響を与えたのかが少しわかった気がする。建築物が空間を演出できるその可能性に道を開いた偉人の業績を平易に解説してくれる本がなかなかなかっただけに、ようやくの感で一気に読めた充実の新書だ。

ル・コルビュジェを見る
〜20世紀最高の建築家、想像の軌跡〜
越後島研一著
中央公論新社刊(中公新書1909)
214p
760円(税別)

2007年9月 9日 (日)

裁判官の爆笑お言葉集

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笑いというものが最も似つかわしくない、というか最も排除された場所は裁判所ではないだろうか。しかしその場所でも時において思わず首をかしげるような場面はあるらしい。

この裁判所がもうすぐ自分にとっても身近な現実になるかもしれない。裁判員制度が平成21年5月から始まる予定だが、この制度では対象の事件は死刑、無期懲役に相当する重大な事件、故意に人を死亡させた事件が対象になる。かなり重い判断に対する責任を裁判官と共に担うことになるようだ。

法の下に厳正に判決を下していく裁判官だけど、この本を読んでいくとやはり人が人を裁く以上、裁判官もまた本音を漏らすことがある。特に印象に残ったのは、死刑判決を言い渡した後のある裁判官の言葉、

「控訴し、別の裁判所の判断を仰ぐことを勧める」

やはり裁判官も人の命を奪う刑を言い渡すときは相当の重圧と呵責があるのだ。

こうした重い内容以外に、裁判官が漏らした本音、シャレの効いた言葉、被告を諭す言葉と、ロボット的で融通の利かないといった印象のある裁判官の世界がよく見えてくる。

しかし、この本を読んで裁判員制度というものに対する不安は増してきた。裁判官の判断にも感情が入るのであれば、裁判員として参加する自分たちの判断基準はどこに置けばいいのか?裁判員として何をさせられるのか説明もないまま導入の日を迎えるのだろうか?

裁判官の爆笑お言葉集(幻冬舎新書)
長嶺 超輝著
幻冬舎刊
234p
720円(税別)

2007年7月15日 (日)

京都の寺社505を歩く

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京都に寺や神社がいっぱいあるのは当たり前。そしてガイドブックに載っているようなところはあらかた行ってしまった。あとどうする?

そんな定番の寺に行ったときも、その近くにいくつか雰囲気のよさげな寺を目にしたとき、この寺はいったいどんないわれがあるのか?と思ったものだ。そしてそんな疑問にある答えを出してくれた本が出た。それが新書版の「京都の寺社505を歩く」

上下編にまとめられ、京都の各地に散在する寺社の説明を詳しく述べてくれている。中には拝観不可の寺もあるが、訪れたときにそのいわれを読むだけでも、何か得した気分になれるというものだ。

今まで大判の書物にはこういう本もあったが、新書で出たというのがありがたい。携帯して今まで訪れなかった寺社を訪ねるのも、なにか上級者の旅の様な心地でまた新たな今日と散策ができるかも?

最近の京都散策では必携の書だ。

京都の寺社505を歩く 上下
山折哲雄監修 槇野修著
PHP研究所刊 (PHP新書)
上 400p 下436p
上下共 920円(外税)

2007年7月 8日 (日)

となりのクレーマー

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最近本屋の店頭でよく見かける本。結構売れてるらしい。この帯のイラストも遠くから見るとインパクトある。まさに意地悪なおばさんって感じだものなぁ〜

著者は長年百貨店でお客さまのクレームを処理する責任者であった人。いろんなケースを挙げて、クレームの対処方法を述べている。

しかし正直こんなケースで文句をつける人がいるのかと思ってしまう。10年も着て、穴が開いたから返品しろなんてのは、どういう神経から来るんだろうか?最近の給食費問題や学校に対する親の理不尽な文句を聞くにつけ、本当、日本人っていつからこんな利己主義になってしまったんだろうと思ってしまう。

幸い自分は技術職なので、いままでお客さまに直接相対してクレームを受ける立場にはなかった。しかしいまや苦情社会、どこに異動するかもわからない中で、予期せぬ相手の言動にどうして対応したらと思うこともしばしば。そんな場合の対応方法として、著者はオーソドックスながら、「真摯な態度」と「素直に聞く」ことをあげている。簡単なことのようだが相手の理不尽な態度にあって、自分が正しいと思ってしまうと、そうした態度を貫くのはなかなか難しいものだろうと思う。

興味本位でトラブルケース集として読んでも楽しい。しかしやはり後半の「クレーム対応の技法」がこの本のキモだ。ここには単にクレームへの対応という面でなく、人と人との付き合い方に通じるものがある。1時間ほどでサラっと読めるが、内容は今にマッチしたなかなか有益な本だった。

となりのクレーマー 「苦情を言う人」との交渉術
関根眞一著
中央公論新社刊(中公新書クラレ244)
198p 
720円(税別)

2007年4月28日 (土)

カラー版 ブッダの旅

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手にとって単純に美しい写真に魅かれた。だから別にブッダ、お釈迦様の生涯に興味があったわけではない。しかしそれらの写真に連れられて、自然にブッダのあくなき探求の生涯を読み進めることが出来た。

いろいろな言葉が出てくる。たとえば「スジャータ」、これはブッダが出家し苦しい修行の後に、苦行は人間の正常な精神をそぎ落とすだけと気がつき、苦行を放棄した際にブッダに粥を施した村娘の名前だそうだ。

また、ブッダが悟りを開き始めて説法を行ったところは「鹿野苑(サールナート)」、これはおそらく鹿苑寺(ろくおんじ)金閣の由来なのだろう。そのほかにも竹林精舎、祇園精舎、ニルヴァーナ(涅槃)など馴染みのある言葉がブッダに由来がある事を知ることが出来た。

そのブッダの教えには、今の仏教にある諸仏の崇拝と言うよりも、いかに自分の境遇に合わせて真実の自分を実現していくか、という事にあったようだ。その中でも次の言葉は今の世界を思うと深く胸に突き刺さる。

「この世において怨みに報いるに怨みを持ってしたならば、ついに怨みのやむことがない。恨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。」

イラク戦争で止むことなきテロを思うと、これを実践することは甚だ困難だが、確かにどこかで終止符を打たねば暴力の連鎖は止むことはない。この真理がいつの日か実現されることはあるのだろうか。現実はあまりに過酷だ。

2007年3月27日 (火)

処女懐胎

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ヤラしい事を想像した方、ゴメンナサイ。これはキリストとマリア様、その家族達のれっきとした「聖なる」お話です。

イエスは神の子、マリアは神の母であると言われてきた。イエスは罪なくしてこの世に人間として生を得て、そして人類の罪を一身に引き受けて十字架上で贖罪の死を遂げながら、やがて復活をした。ではイエスを産んだマリアは、人類がアダムとイブが犯した原罪を受け継いでいたのか、それとも免れていたのかが、まずは神学上の論点だった。そして生まれたのがスペインで一斉風靡した「無原罪のお宿り」。

仮にマリアが原罪を免れていたとすれば、それでは彼女の母、アンナはどうだったとか。マリアが処女のまま身ごもったのであれば、その夫ヨセフはどう対応したのか。ヨセフはいかなる役割を演じたのか。

イエスが神の子として唯一の存在である以上、家族というものは本来存在しないはずである。しかしマリア、その夫ヨセフ、マリアの母アンナ、そしてアンナの3人の夫とその子供達の存在が伝えられ、それぞれが美術の題材として扱われてきた。それらは時代、家族に対する考え方の変遷と共に代わってきた。そうしたイエスにまつわる人々の浮き沈みをこの本は語ってくれる。

マリアについても十分詳しい解説だが、この本の真骨頂は、マリアの夫、ヨセフに関する説明だ。マリアの夫でありながら、イエスの父ではありえない、説明しがたい存在であった彼に焦点をあてながら、時代と共に復活を果たしてきた彼の姿を明らかにしたことが、この本の特色だと思う。

処女懐胎 岡田温司著
中公新書1879 中央公論社刊
274p 880円+税

2007年3月19日 (月)

読書の腕前

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昔ほど本を読まなくなったかもしれない。平日は忙しいから時間がない、寝る前にと思って枕元の本を2,3ページめくっても眠くなってしまってそのままライトを消すことになる。休日は休日でソファーに座って読み始めると、いろいろ気が散ってしまって思うに進まない...買ったときには勢い込んで読もうと思った本はうずたかく詰まれたままで、なんか罪悪感を感じてしまう。そんな気持ちになったことないだろうか?

でもこの本を読むと「ツン読」もそう悪いことじゃないと思えるようになる。「ツン読」にはちゃんと読むという文字が入っているんだから。ツン読を避けるようじゃ読書の腕前は上がらない、書評を中心に活動を続け、年間3千冊の本を新たに購入し続ける著者が語るのだから、間違いはなさそうだ。

この本は「読書とはかくあるべし」のようなことは書かれていない。でも読んでいくと肩の荷が下りるような気持ちにさせられる。たとえば寺山修二がこう書いている。

「目と書物とは20センチくらいの距離を保っているとコミュニケーションが成り立つが、それ以上近づくとぼやけてしまうし、それ以上遠ざかると読めなくなってしまう。(中略)魔の20センチが知性というものに『つかず、はなれず』の客観化を吹き込んだのかもしれないのである。」

20センチが近いか遠いかはさておき、本との間隔は絶対あるんだから、自分がその本に一体感を覚えられずにその間隔を埋められなくても仕方のないことなのだ。そう割り切れば肩の力が抜ける。

本を読むと言うことは、時間もかかるし効率的には悪いものかもしれない。一人でするものだし、孤独な時間かもしれない。でもその時間の中に無限の楽しみがあるからこそ、読書をやめることはできないんだ。読書の楽しみはまさにここにあるのだろう。

読書の腕前 岡崎武志 著
光文社新書 光文社 刊
294p 780円

2007年3月18日 (日)

進化しすぎた脳

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人間の複雑な機能、行動を制御する脳。特に筋肉や内臓などの器官を司っている以上さぞかし正確無比なつくりなんだろうと思っていたが...この本はそんな脳への思いを根底から覆してくれる。「脳はなんてあいまいなんだ!!」と思い知らされ、そしてそう考えてみれば人間の理解できない行動、感情の起伏なんかも素直に受け止められるようになる。

素直に考えれば、もし脳が正確無比なら人間の行動って画一的になってしまう。もしすべてを正確に記憶してしまえば、一度会った人が少しでも容姿を変えてきたら、その人とは判断しない。たとえ年月を隔てても、「あ、あの人だ」とわかるのは、すべて脳の記憶のあいまいさのなせる業なんだ。

先進の脳科学者で、以前脳の記憶に大きな役割を演じる「海馬」という本を糸井重里氏と著した池谷裕二氏。この著書では高校生に対する4回の講義形式で脳にまつわるすばらしいメカニズムの数々を解き明かしていく。本の帯にも書かれているが、確かにこれほど深い内容を平易に書かれた本はそうない。

380ページで中身も非常に濃い。錯覚が起こる理由や、記憶のメカニズム、アルツハイマー病の話など、興味深いテーマも多く盛り込まれてしかもやさしく解きほぐすように書かれている。まさに知的好奇心を充足させてくれる一冊だった。

進化しすぎた脳 池谷裕二著
講談社ブルーバックス 講談社刊
397p 1,000円

2007年2月27日 (火)

チェコ語のしくみ

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チェコって結構御縁があるんっす。昔住んでた堺市はミュシャにゆかり(何でかな?与謝野晶子関係?)があって展示もしてたし、大好きなピルスナービールはチェコが発祥の地だし、合唱にはまったのはスメタナの「モルダウ」だし、なによりリロシツキーの出身地だし。

でもチェコの至宝はプラハだろう。百塔の町といわれるくらい歴史にあふれているそうだ。行ってみたいと思って「チェコ語の入門」買って読んでみた。でもすぐ挫折した。スラブ系の言語って格変化が多くって、どうにもついていけない。

チェコ語には格変化が7つある。ドイツ語のように冠詞が変化するのでなく、語尾変化なので語尾の形で変化も変わる。名詞もドイツ語と同じく男性、女性、中性と3種あるが、それに活動体、不活動体だのの区別もあり、この文法用語だけが先行するともうお手上げになる。

でも結構アートが好きだとポスターや絵本やマッチ箱の本なども出てるのでチェコ語が目に触れる機会は割合多い。で、最近「新書みたいにスラスラ読める」なんて帯のあるこの本を手に取った。

たしかに字も大きく、文法を堅苦しく扱っていないので読みやすい。お題のようにスラスラとはいかないが、まずは楽しく読めた。でもやはり格変化のところでは立ち止まってしまう。一回挫折した人間だからまだしも、はじめてチェコ語に触れる人は本当にこの本をスラスラよめるんだろうか?

チェコ語の発音も子音と母音が規則正しく組み合わさる言語を話す日本人にはクセモノだ。子音ばっかり続く単語も出てくる。こういった違いや先に述べた語尾変化を「面白い」、と素直に楽しめる人は読み物的に楽しめるかもしれない。でもまじめな人はどっかで挫折するんじゃないかな。チェコ語はやはり日本人には難しい、と正直思った。

2007年2月25日 (日)

ワインと外交

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外交が国家間の駆け引きの連続とすれば、饗宴もまたその一部であり、そこには国家間の関係が色濃く反映される。それは当然料理にも、そしてワインにも...

前著「エリゼ宮の食卓」から10年。前著はフランスを舞台として、各国首脳を迎える際の料理メニューから国際政治の裏を読み取ろうとして面白かった。当時めまぐるしく変わった日本の首相の中でフランスが誰を重視したのか、などという観点は日本での常識と異なったところもあり、非常に興味深く、特に短命に終わった羽田首相へのあまりに手軽い扱いなどは、国際政治の非情さの一面として驚きでもあった。

今作ではフランスに限らず、各国の饗宴外交にそれぞれスポットをあてている。想像はできるが、各国が最も神経を使う相手は中国、ということであり、国内向け報道を考えた各種の要求、人権団体のデモに対する警護への要求、それに対する各国の苦肉の対応など外交の舞台裏を垣間見せてくれる。

前作に比べると多国間の饗宴に話題が展開するので、首脳に対する単純なもてなし度合いの比較、という興味だけで読み解くことは出来ないが、各国がその時々の国際情勢、二国間の関係に応じて饗宴の場を演出しようとする舞台裏が現実的に迫ってくる。国際政治本として異色ではあるが、より真実味にあふれた一冊だ。

2007年2月15日 (木)

食べる西洋美術史 「最後の晩餐」から読む

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西洋において食事はいろいろな面から語られる。人間が逃れられない欲望、生きるうえで欠かせない活動、あるいは狂おしいまでの情熱としての対象。

そしてキリスト教の普及により、「ワインはわが血、パンはわが肉」として食事に聖なる地位が与えられるに及んで、その描写の機会も加速して増大した。ある絵などは有り余る食材を9割描きながら、その一角片隅に聖書の題材を挿入し、宗教画の偽装を図った。

そうした食事の描かれ方を通して西洋美術を通史的に眺めたのが本書。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」について書かれた内容もあれば、静物画としての食材を題材とした絵が受けた背景なども平易な文章で書かれている。

特筆すべきは図版の豊富さ。全部ではないが一部有名どころの絵画はカラーで口絵として挿入されている。

この本を通して、食事というものが単に物理的な人間を動かすためのエネルギー補給という面だけでなく、長い期間人間にとって思索の原点となってきたということを認識できた。

宮下規久朗著 光文社刊

2007年2月11日 (日)

フェルメール全点踏破の旅

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現存する作品の少ないアーティスト、といえば真っ先に思い浮かぶのはヨハネス・フェルメールではないだろうか。真筆と認定されているのは30作余り。それを一気に見てしまおうという企画、美術ファンなら夢の企画だ。

僕もそうなのだが、フェルメールのよさは描写の自然さにあると思う。作品にもよるが、光の入射、反射、人物の表情が自然で、決して作為的でない、いや実は作為的なのだがそれを感じさせない自然さが絵の中にある。そしてそこから発散される荘厳さのような感覚がひきつけるのではないかと思う。

新書版ながら全編カラーで、フェルメールの作品を楽しむことが出来る。ただし全作品踏破はできていない。個人所蔵の作品もあるし、盗難中の作品もあるからだ。しかし33品のフェルメールをこの手軽な1冊で楽しむことが出来るのはうれしい。作品それぞれのエピソードにも触れ、ジャーナリストらしい簡潔な感想が、美術書の持つ堅苦しさを離れて、旅行記のような感覚で楽しむことが出来る。

さて、僕もフェルメールファンなので旅行先でも見てきたが、最近は日本にいてもフェルメールがたびたび見れるようになっている。今年は「牛乳を注ぐ女」がやってくるそうだが、正直日本初公開とは思わなかった。今年9月、六本木の国立新美術館で行われる展覧会にあわせて公開される。また混雑するんだろうなぁ。

アムステルダム国立美術館所蔵 フェルメール《牛乳を注ぐ女》とオランダ風俗画展
9月26日(水)−12月17日(月)